伊根の舟屋の歴史まるわかりガイド

はじめに 

ここは伊根の舟屋をただ見て楽しむだけでは分からない、伊根の本当の魅力を伝えるページです。舟屋が誕生してから今までの歴史や伊根の地形的な特徴、舟屋の果たす役割など、様々な角度から伊根をより深く知ることができる内容になっています。これであなたも伊根マニアに!?このページを見ながら伊根をゆっくり回って見ましょう。
ちょっと文章ばっかりは退屈だなー。という方は現地にて地元のお母さんよるローカルガイドもおススメです!
与謝荘のお女将とめぐる伊根舟屋散策ガイド

舟屋を生み出した特別な地形の秘密 (道の駅 舟屋の里伊根)

この道の駅にある展望台からは伊根の舟屋を一望できます。今いる展望台からちょうど真っ正面に見えるのが青島と呼ばれる天然の島です。そして、それを取り囲むようにたち並んでいるのが伊根の舟屋です。周囲5kmに渡って約230軒の舟屋が立ち並んでいます。
 どうして舟屋があるんだろう?不思議ですよね。それはこの地形に秘密があるんです。今真正面に見えている青島を取り囲むように背の高い山がそびえ立っていますよね。実は伊根湾はこの北・東・西側の三方にそびえ立つこの急峻な山によって囲まれているおかげで三方から吹き付ける日本海の風とそれに伴う荒波が直接入ってこない地形になっているんです。更に湾の出口には先ほど説明した青島が浮かんでおり、南からの風にも強いのです。
 つまり四方全ての風とそれに伴う波の影響を受けにくい構造になっています。特に湾が南向きというのも重要な点です。南側からの風は日本海の外海ではなく、内海である若狭湾からなので伊根湾に入ってくる波も比較的穏やかなのです。ですので日本海の海とは思えない穏やかな波が年中続いています。この年中を通して穏やかな波であることで舟屋を建てることができました。この地形無しに舟屋を語ることはできません。
 また、伊根で重要なのが潮の満ち引き、所謂干満の差が非常に少ないのも特徴の一つです。例えば、瀬戸内海では1日の間に最大で4mも変化する事もあります。こんなに変わってしまうと、朝に出た船が舟屋に帰ってきても中に引き揚げることができません。しかし、伊根湾では年間を通して80cm程度しか干満差の差がありません。このおかげで舟はいつ帰ってきても安全に舟屋へしまう事ができたんですね。

伊根湾で育む養殖業 (道の駅 舟屋の里伊根)

伊根湾の中にサークルがあるのがわかりますか?あれは伊根湾で行っている養殖業です。
伊根湾内ではブリをはじめ、マダイ、カンパチ、そして岩ガキなどの養殖が行われています。ブリの養殖は青島の手前にあるサークルで、岩ガキの養殖は青島から向かって左側の舟屋の前に並んでいる四角いサークルの中で養殖されています。
 伊根の天然ブリは江戸時代からその味が有名で養殖もそれに劣らず人気があります。伊根湾内の低温で清潔に保たれた海で養殖されたブリは身が引き締まり、適度にあぶらの乗った美味しい鰤が味わえます。
 さらに青島の奥にもサークルがあるのがわかりますか?実は、伊根では大型クロマグロの畜養も行われています。これは夏季に日本海で捕獲されたマグロを冬季まで育成し、脂をのせ、価値を高め出荷する方法で出荷されており、主に東京の豊洲に「伊根マグロ」のブランドで出荷されています。スシローで時々伊根マグロフェアも実施されているんですよ。伊根マグロは、肉質や脂の乗りもよく、高い評価を得ています。

舟屋の構造

 

今からおよそ400年前、江戸時代初期に建設された舟屋は当初は舟納屋(ふななや)、つまり舟を納めておく納屋(なや)=倉庫として役目を果たしていました。これは当時の舟は今とは異なり木造船、網は麻だった事によります。どちらもずっと海につけておくと腐ってしまうんです。しかし、現在は舟も網も化学繊維の為に毎回陸へ上げる必要がないこと、そして手こぎの舟の時代と比べて今はガソリンで動くので舟が大型化しており、そもそも現代の標準的な漁師の舟は舟屋の中に入らないんです。更に根本的に漁師さんの人数も減ってきています。以上の事から、その当初の機能としての役目は不要となってきています。代わりに現在では舟屋を二次的な居室、例えばお客さんが泊まりに来た時に泊めてあげたりしたり、或いは倉庫として利用したりしています。近年では伊根町の観光客数の増加に伴い約230軒の内、30軒ほどの舟屋は宿泊施設として運営されています。舟をしまうための舟屋はどんどん少なくなっています。

伊根の舟屋の始まり(大正期の写真)

江戸初期から確認される伊根の舟屋はあくまで舟のガレージとして誕生しました。江戸時代の舟屋は写真のように藁葺きで1階部分に舟を引き込んでいました。当時の舟屋には今見ている舟屋のように2階部分はなく梁があるだけでした。昔は梁に漁網をかけて干していたりしたようです。藁葺きの舟屋は風通しが良い日陰で舟と漁網の保管には最適だったんですね。
 となると次にこん疑問が思い浮かびませんか?舟屋は船をしまう納屋だとすれば、住民はどこに住んでいたのだろうか?その答えは舟屋と道路を挟んで反対に建つ、もう一つの建物です。ほとんどの舟屋の山側にもう一つ建物がありますよね。これが母屋(おもや)だったんです。つまり山側に住所を構えて漁に行く時は目の前の舟屋にいく、今でいう車のガレージがあるみたいなイメージですね。これが元々の伊根の住まいの形なのです。
 ところで、舟屋について漁師さんの目線で考えてみると、その利便性がわかります。海から少し引き揚げるだけで簡単に保管できるんです。では全国の漁師町に何故舟屋が無かったのか?いや実は全国にいくつかあるんです。例えば近くでは天橋立の溝尻(みぞしり)と呼ばれる地区にもあるんです。でも230軒という数の舟屋は全国どこを探してもありません。それはこれほど波の穏やかな場所は無いから。この北・東・西が山に囲まれた地形と、伊根湾が南向きであること、そして湾の出口には青島という天然の防波堤に守られているんです。
 更にもう一つ大きな理由もあります。よく伊根湾を見て下さい。平地がほとんど無いですよね。そもそも伊根には平地が少ないので海沿い以外に建てる場所が無かったという言い方もできます。この地に住んだ先人達が編み出した一番合理的な住まいの形、それが舟屋といえるかもしれませんね。

重要伝統的建造物群保存地区に指定について

伊根浦公園内にある看板をご覧ください。伊根の重要伝統的建造物群保存地区の看板があります。
伊根町は平成17年(2005年)に漁村では全国で初めての国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また、選定区域に海(伊根湾)が含まれることも初めてのことでした。これは、この制度が舟屋の建造物だけではなくそれを取り囲む環境全てを保存する取り組みだからなのです。なのでみなさんが今見ている山も保護の対象になっています。これによってにこれから先も後世に渡ってこの街並みを守っていくことができるのです。  重要伝統的建造物群保存地区に指定されると、家の外壁の色は黒や茶色のような色にしなくてはいけませんし、建具も基本的には木造にすることになっています。住む側にとっては煩わしいこともありますが、この唯一無二の景色を守っていくために一丸となって取り組んでいます。

舟屋の道幅について (海蔵寺下)

上の写真の矢印の部分を見て下さい。海に向かって道が続いてるのがわかりましでしょうか?反対に山側に目線をやるとその道が山にも伸びているのがわかると思います。
ご存知でしたか?今みなさんが車や路線バスで通ってきた舟屋の前の道路は実は昭和6年(1931年)から昭和15年(1940年)頃にできた道なんです。それ以前は舟屋と主屋の間は傘を持った人同士がギリギリすれ違えるぐらいしかなかったのです。当たり前の話ですが昔は車の無い時代だったんです。その当時の移動手段は徒歩か舟でした。なので陸路は人が通れる広さで良かったんです。その分昔は山道がたくさんありました。車が発達した今はもうそのほとんどが獣道になってしまいましたが。
そして、山道と同様に昔は海への道もたくさん利用されていました。その昔の道のなごりが残っているんですね。この海から山まで続く一本道のその先には海蔵寺というお寺があります。
 つまり、この道は昔の参拝道だったんです。今では考えられないですけど、昔は船移動が当たり前でした。なのでこのように海に抜ける道がたくさんあったんです。昔の人は船でお寺に参拝しに行ってたなんてなんだか素敵ですよね。今でもその道がたくさん残っています。歩きながら是非探してみて下さい。

鯨漁について 

江戸時代の捕鯨図

捕鯨中の様子

実は伊根には時より鯨が迷い込んできていました。文献によると、1656年から1913年までの257年間に355頭ほど獲れたそうです。どのように獲っていたかというと、鯨が伊根湾に迷い込んでくるとまずは退路を断ちます。このやり方もとても面白いです。青島の両サイドを見て下さい。左側が小間口で右側の広い方を大間口といいます。鯨が入ってくると、小間口を18艘、大間口を38艘の木造舟で塞いだそうです。その後、伊根湾内にいくつかあるくぼみになった場所に追い込んで鯨モリと呼ばれる特殊なモリで仕留めます。ちなみに一番最初に鯨にモリを刺した者には報奨金が出たそうです。勇気がある人しかできないことですね!
 獲れた鯨はその隅々まで余すところなく使われたそうで伊根の住民にとっては大変価値のあるものでした。青島には蛭子神社と呼ばれる神社もありそこには鯨のお墓があります。鯨を獲った後には必ず骨の一部を切り取って納めて、天橋立にある成相寺というお寺からお坊さんに来て頂き供養も行っていたようです。
 ちなみにちょっと面白い話も残っています。鯨をとっていた当時の伊根は宮津藩の管轄でした。なので伊根で鯨が獲れると、伊根の漁師は宮津藩の鯨担当のお役人を呼びにいきます。そしてお役人立ち会いの元、鯨の種類や大きさを測っていき、その金額を計算しそこから10%手数料として宮津藩に収めていたそうです。この時に伊根の漁師さんはお役人にお酒をたくさん呑ませ酔わせたところで計測することで、鯨を少しでも小さく計測させて税金が安くなるようにしていたとか。漁師さんの知恵ですよね。

護岸工事について

漁場としての伊根

伊根のイルカ 

伊根には昔からイルカが湾内に入ってきていました。今でも年に数回は入ってきます。見れたらかなりラッキーです。しかも遊覧船に乗っていると、一緒に船の周りを泳いで遊んでくれるんですよ。更に、専門家によると、とあるイルカの一家は毎年伊根に立ち寄るそうです。さて何をしているのでしょうか?どうやら湾内で睡眠をとっているらしいです。穏やかな伊根湾だからこそ、イルカもくつろげるんでしょうね。ちなみに江戸時代には伊根湾でイルカ漁も行っていました。

えびすさんを見つけよう!

写真の画像。何だかわかりますか?実はこれ七福神の一つえびすさんのお顔なんです。えびすさんと言えば、七福神の内、唯一日本固有の神様なんです。そして、片手に釣り竿、もう片方に鯛を持っています。つまり漁師にとっては、大漁や漁の安全を祈願する大切な神様だったんです。よく観察しながら歩いていると至る所にえびすさんの顔がついていますので探しながら歩くのも楽しいです。また、舟屋の中には個人の自宅なので入れませんが、ほとんど家では掛け軸にえびすさんが描かれています。そして、伊根湾に中央に浮ぶ青島の中にも蛭子神社があります。そこでは毎回鯨が獲れると骨の一部を切り取って納めていたそうです。いかに漁師にとってえびすさんが大切な存在かがわかりますね。

鯨の墓場!?耳鼻の谷地獄  (耳鼻の谷)

このエリアは耳に鼻で耳鼻(みび)という地区です。ここの最大の特徴はこの独特な曲線に並んで建っている舟屋群。
この舟屋から山側に同心円状に家々が広がっています。実はここは、昔鯨漁が盛んであった頃はこの耳鼻の中に鯨を追い込んで仕留めていた場所なんです。
 鯨から見ればまさに墓場です。なので耳鼻の谷地獄という名前が残っています。昔海底を調査した時にたくさんくじらの骨が出てきたとか。
今では、伊根の舟屋群の中でも人気のフォトスポットになっています。是非お立ち寄りください。但し、近辺に駐車場は無いので、海上タクシーと呼ばれる小型の遊覧船かレンタサイクルでお越しください。

屋根柄の絶景美が楽しめる慈眼寺 (慈眼寺)

耳鼻の谷は舟屋と家屋が密集して立ち並んでいます。これを高台から見ると絶景なんです。
屋根瓦が綺麗に太陽に照らされてキラキラ輝いているさまは正にインスタ映えです。
※こちらも周辺に駐車場が無く、車での訪問は不可です。
七面山駐車場等町営の駐車場に駐車頂きレンタサイクルを使用して訪問してください。

伊根の井戸 

伊根の舟屋群に井戸があるのはご存知でしょうか?実は舟屋群には井戸があるんです。しかも真水なんです。
これだけ海に近い場所なのに不思議ですよね。地元の方はここで野菜を洗ったりしているそうです。

家の下にある謎の通気口

街歩きしていたら家の軒先にある四角い箱が気になりますよね。謎のボックス。これ、実は下水処理施設の一部なんです。
伊根の舟屋エリアでは地形や地質の状況により、真空式汚水収集システムが採用されています。
これを採用することで伊根のように地面を深く掘りにくい海沿いの環境で適しています。
そのシステムの一部として空気取組口が必要でそれが軒先に出てきているんです。

伊根花火

伊根では毎年8月の最終週の土日に伊根湾の真ん中から花火が打ち上がるんです。
伊根湾は山に囲まれているので音が響き渡ってインパクトが大きいです。

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