伊根の舟屋-歴史ノート-

 伊根町は、人口約2,000人(京都府で二番目に少ない人口)の小さな町です。小さいながらも歴史はたくさんあります。伊根の散策が少しでも楽しくなるように今回は伊根の歴史を紹介します。

伊根の地形

「伊根の舟屋」は京都府北部の丹後半島に位置する伊根町の伊根湾及び日出湾の周囲5kmに渡って並んでいる約230軒の舟屋を指します。

 その内の一つである伊根湾は東・西・北側の三方が急峻な山によって囲まれており、北側から吹き付ける日本海の強い風が直接入ってこない構造になっています。更に湾の出口には青島と呼ばれる天然の島が浮かんでおり、南からの風にも強いのです。

 つまり四方全ての風とそれに伴う波の影響を受けにくい構造になっており、日本海の海とは思えない穏やかな光景が広がっています。

 また、干満の差が少ないのも特徴で年間を通して80cm程度しかありません(例えば、日本では瀬戸内海では1日の間に最大で4mも変化する事もあります。)

漁場としての伊根

伊根湾の出口は若狭湾と呼ばれている。このあたり一帯は暖流である対馬海流と寒流であるリマン海流がぶつかり合う場所で、この海域では魚種・漁量共に豊富です。更に、伊根の森は魚付林(うおつきりん)と呼ばれる魚が住みやすい原生林が今でも残っています。シイノキやタブノキの巨木の森から生み出させれる栄養分が海のプランクトンを増やし、魚が集まりやすい場所になっているのです。

 近世初期の民家は現在の位置よりも高い場所に点在していました。海岸は波うちぎわまで木が生い茂ってました。ですので今とは比べられないほど多くの魚がこの湾内に入ってきていたと考えれます。

 特に伊根のブリは有名です。元禄10年(1697年)刊行の『本朝食鑑』と呼ばれる当時のグルメ本には、「今以丹後之産為上品、越中之産次之、其餘不及二州之産(いまだたんごのさんをもって、じょうひんとなす。えっちゅうのさん これにつぎ、そのよはにしゅうのさんにおよばず)」とあり、丹後鰤(伊根鰤)は古くから最高とされています。

稀有な地形と恵まれた漁場の集大成である舟屋

稀有な地形と恵まれた漁場の集大成が舟屋です。伊根に住み着いた人々の多くは漁師として生活を始めます。伊根の舟屋は文献で確認できる範囲では江戸時代の初期には存在していたとされます。当時の漁師はトモブトと呼ばれる木製の舟、そして漁網は麻糸を使用していました。ここが現在と大きく異なる点です。プラスチック製品がまだ発明されていない時代では、漁へ出て帰ってくる度に毎回舟と網を陸へ引き上げる必要がありました。海水にそのままつけておくと腐ってしまうのです。また、保管場所は日陰でかつ風通しの良い場所が好まれました。そこで考えられたのがこの舟屋なのです。年間を通して穏やかな伊根の地形を生かす最も合理的な方法として舟屋を建てられたのです。

舟屋の機能(昔)

江戸初期から確認される伊根の舟屋はあくまで舟のガレージとして誕生しました。江戸時代の舟屋は藁葺きで1階部分に舟を引き込んでいました。当時の舟屋には2階部分はなく梁りがあるだけでそこに漁網をかけて干してました。藁葺きは風通しが良い日陰で舟と漁網の保管には最適でした。舟屋の材料については、土台や柱部分は海水に強いシイノキ、梁部分に松の木が多く使用されています。伊根にはシイノキの原生林が多く植生しておりそれらを伐採して使用していたと考えられます。

但し、これらの舟屋の機能も技術の発展と共に変化していきます。明治13年(1880年)から昭和25年(1950)までの鰤景気によって、その多くが瓦葺二階建手に替えられた。また、昭和6年(1931)から約10年の歳月を費やして行われた府道伊根港線の拡張工事は、総延長約5kmにわたって幅員4mの道路を舟屋と母屋との間に敷節するものである。それによってそれまで母屋と近接して建っていた舟屋や土蔵が海側へと移設され、多くの舟屋が2階立てに変わっていった。

舟屋の機能(今)

舟屋の画像

元々舟屋は舟納屋(ふななや)、つまり舟を納めておくガレージとして役目を果たしていたが、現在は舟も網も化学繊維の為に毎回陸へ上げる必要がないこと、舟が大型化していることなどからその当初の機能としての役目は不要となってきています。代わりに現在では舟屋を二次的な居室としたり、或いは倉庫として利用したり等別の役割を果たしています。特に近年では伊根町の観光客数の増加に伴い十数軒ほどは船宿として宿泊業を営んでいます。舟屋は徐々に変化していきます。

重要伝統的建造物群保存地区に指定について

伊根町は平成17年(2005年)に漁村では全国で初めての国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また、選定区域に海(伊根湾)が含まれることも初めてのことでした。これは、この制度が舟屋の建造物だけではなくそれを取り囲む環境全てを保存する取り組みだからなのです。これによってにこれから先も後世に渡ってこの街並みを守っていくことができるのです。

舟屋の道幅について

ご存知でしたか?今みなさんが車もしくは路線バスで通ってきた舟屋の前の道路は実は昭和6年(1931年)から昭和15年(1940年)頃にできた道なんです。それ以前は舟屋と主屋の間は傘を持った人同士がギリギリすれ違えるぐらいしかなかったのです。車が当たり前の時代だと想像しづらいですが。車が普及するより前の時代は山道がたくさんあり使用されていたようです。

 そして、海をみてください。海に向かって一直線に道が伸びています。そして反対の山側に目を向けると階段を登って上に抜ける道があります。その先には海蔵寺というお寺があります。時には舟でお寺へ参拝したかもしれませんね。伊根にはこのように海に抜ける道が今でもたくさん残っています。

鯨漁について

実は伊根には時より鯨が迷い込んできていました。文献によると、1656年から1913年までの257年間に355頭ほど獲れたそうです。どのように獲っていたかというと、鯨が伊根湾に迷い込んでくるとまずは退路を断ちます。青島を臨んで左側の小間口を18艘、右側の大間口を38艘の木造舟で塞いだそうです。その後、伊根湾内にいくつかあるくぼみに追い込んで鯨モリと呼ばれる特殊なモリで仕留めます。鯨はその隅々まで余すところなく使われたそうで伊根の住民にとっては大変価値のあるものでした。

 但し、鯨は単に獲るだけのものではなく、その霊を弔うために僧を招いて供養もしていました。

浜売り

漁師町である伊根町はやはり朝が一番活気があります。特に浜売りは伊根の住民の一種の社交場のようなものです。中でも、漁獲量が一番多いのが大きい網でまとめて魚を獲る大型定置網漁です。日が昇るのが早い夏場は朝4:45には船は出航します。その後、日によって変わりますが7:00頃に網を網を持ち帰ってきます。獲れた魚はまずは大まかに選別機によって仕分けられ、その後は地元の方々によって細かく選別されトラックに積み込まれます。

浜売りと呼ばれるシステムはこの魚を分けてトラックに積み込む間に地元民向けに行なっている魚の量り売りの事をさします。

毎朝家にある防災無線で今日の漁模様を聞いて買いたい魚があれば、長靴を履いてバケツを持って、自転車で向かうのです。これは伊根の日常の風景で漁師町ならではの貴重な時間です。

護岸工事 

伊根の舟屋は江戸時代初期からあったと言われています。そんな歴史ある舟屋を見ていてふと気になる点が・・・そう土台部分に立派なコンクリートが使用されています。これは一体どういうなのか?

 これは伊根の舟屋の景観を守るための手段なのです。江戸時代から続く伊根の舟屋。この景色は重要伝統的建造物保存地区に選定されこれからも保存していくことが決まっています。景色はもちろん大事ですが、そのためには長い年月に渡って保全することも必要になってきます。舟屋は波が穏やかな伊根湾だからこそ成り立つものですが、いくら穏やかと言っても波は毎日やってきます。特には強いだってあります。ですので、長期に渡って景観を守って行く方法として石積み模様のコンクリート護岸工事を実施しています。

 これを機に完全に舟屋の入り口を塞ぐ家も出てきています。

伊根のイルカ 

伊根には昔からイルカが湾内に入ってきていました。今でも年に数回は入ってきます。専門家によると、毎年同じ種類のイルカの家族が入ってきているようです。さて何をしているのでしょうか?どうやら湾内で睡眠をとっているらしいです。穏やかな伊根湾だからこそ、いイルカもくつろげるんでしょうね。